ぶらり歩き
7. 東京 日本橋〜築地探索 平成19年8月4日
一ヶ月ほど、ウォーキングを休んでいたこともあり、明日の甲州街道歩き(上野原〜大月)に備えた足慣らしも兼ねて、大学時代の友人3名と日本橋を起点に銀座、築地、そして月島までをゆっくりと歩く。梅雨が明けたばかりで、これまでは夏らしい暑さはなかったが、今日に限って気温約35度の生憎の好天気となる。
銀座通り(写真1)は歩行者天国で解放された車道まで、ビルの影が強い陽射しを遮って日陰を提供してくれるので、歩くのには楽である。銀座通りから晴海通りに入ると、店の宣伝を兼ねて団扇を配っており、わずかの間に3本もの団扇を手に入れる。
築地の場外市場をひやかし、波除(なみよけ)神社に参拝して勝鬨の渡し石碑(写真2)に出る。石碑は明治38年(1905年)に当時の京橋区民の有志が勝鬨の渡しと名づけて渡船場を開設し、東京市に寄付した記念に建てられたものである。渡船場は元は波除神社の辺りにあり、昭和15年(1940年)に可動式の勝鬨橋が開通するまで運航していたという。
明石町の聖路加病院が建っている辺りには名跡が数多く残り、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭の上屋敷跡(写真3)は東京都の旧跡に指定されている。また、この辺りは明治維新後に、外国の公使館、領事館などの築地居留地となり、日本の近代化に影響を与えた地域である。そして、外国人が住んでいたことと関係あるのであろうが、耕牧舎という乳牛の牧場があったそうで、その経営者・新原敏三の長男として芥川龍之介がこの地で生まれている。現在の聖路加タワーの超高層ビルが建つ光景からは牧場がこの辺りにあったことを想像することはできないが、100年という時間によって隔てられた歴史を再認識させられる。
徳川家康が大阪の漁民を呼び寄せて住まわせた佃島と間を結んだ渡船場が佃島渡し(写真4)で、聖路加病院の北東端の隅田川岸にある。昭和39年(1964年)に佃大橋が完成するまで300年もの長きにわたり存続していた。
佃大橋を渡り、70軒のもんじゃ焼き店が並ぶ月島のもんじゃ通りの一軒でビールのジョッキを傾けて、乾いた喉を潤す。
(1)銀座通り | (2)勝鬨の渡し石碑 |
(3)浅野内匠頭邸跡の石碑 | (4)佃島渡しの石碑 |
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